セッションの後、Mさんは潜在意識ととても繋がりやすくなって
補足の説明をメールしてくださいました。
話している最中は、「これは自分で話してるんじゃないのかな?」
と疑問に思ったりもしたのですが、
と疑問に思ったりもしたのですが、
後から思い返したときに、まるでパズルのピースが抜け落ちたように、
自分が話した内容を憶えていないことに気がつきました。
潜在意識がしゃべってるときは、まさにイタコのような感覚でした。
こういう状態は、普段の会話ではないことだなというのと、
なにより催眠に入って過去生を見ている間、とにかく鳥肌が来て、
ガタガタと体が震えて、歯がカチカチとなって止められないほどでした。
まったく寒くもないのに急にそういう状態になったので、
とてもびっくりして、自分が通常の状態じゃないということを
はっきり認識できました。
とてもびっくりして、自分が通常の状態じゃないということを
はっきり認識できました。
また、「こども達のこと」や「原爆にあった子」
「核廃絶署名活動をしているおじいさんの目」
などについて話しているときは、鳥肌が来て、
とても感情的な感覚がせり上がってきて、
とても感情的な感覚がせり上がってきて、
いちばん昂りがあったように感じました。
それは、地球で人間として生きるということは、そういう人間らしい
「情」というものをしっかり押さえる、しっかり感じる、味わい、
思いはかる、ということが大事なのであって、
「情」というものをしっかり押さえる、しっかり感じる、味わい、
思いはかる、ということが大事なのであって、
そこをすっ飛ばしてクールに突き抜けた真理を掴んだように感じて
悟ったつもりになるのは違う、
悟ったつもりになるのは違う、
「人間らしい心」という場所にちゃんと舞い戻ってきて、
他者のバックグラウンドまで思い馳せられる心を養ってこそなのだ、
みたいなことを伝えたいようでした。
みたいなことを伝えたいようでした。
「ちゃんと普通に人間をやりなさい、それをやってこそです」みたいな。。(笑)
やはり、駅降りてすぐに大音量で「原爆を許すまじ」の歌が流れて
横断幕がかかっているという、
横断幕がかかっているという、
滅多に見ないような状況も、用意されたものだったのですね。。
土日ならまだしも、平日の昼間ですものね。
★ふくらはぎの件について
また、例のふくらはぎの件ですが、どうも、
その後潜在意識と繋がる感じがあって、
その後潜在意識と繋がる感じがあって、
潜在意識としては、嶋田さんにこの件を特に聞いて欲しかったところ
だったようなのです。
だったようなのです。
だから、前日に夢見心地な状態でやたらに「ふくらはぎの件、大事〜!」
みたいに来てたのか、と(笑)
みたいに来てたのか、と(笑)
なんだか、大音量で言われているような感じでした。
私の受け取ったメッセージは、以下のような具合でした。
他者の病気や鬱状態等の、重いネガティブなエネルギーを
ポジティブなエネルギーに変換するという役割を担う者は確かにいる。
ポジティブなエネルギーに変換するという役割を担う者は確かにいる。
その行為が、浄霊などと言われることも確かにあるだろう。
そういう存在はこちらからは光って見えてよく分かるので
(映像ではグリーンの光でした)
(映像ではグリーンの光でした)
他者のネガティブなエネルギーをポジティブに変換するために肉体を
変換装置として借用することがある。
変換装置として借用することがある。
しかしそれは、「ちょっと、借りますね(テヘペロ)」
くらいの感じのことなのだ。
くらいの感じのことなのだ。
(セッション中、テヘペロという軽い感じのイメージが
送られてきていました)
送られてきていました)
そのように軽く考えていれば、この人物(私)のように、
ごく軽いレベルの身体症状で済む。
つまりこの人物は、「宇宙が自分に肉体的に辛くなるようなことなど
させるわけがない」という思考状態であったので、
他者の重いエネルギーを請け負っても、
させるわけがない」という思考状態であったので、
他者の重いエネルギーを請け負っても、
軽い身体症状しか体験しない、という設定で、その現象を体験した。
しかしそれを、「自分には浄霊のお役目がある」
「人様を助けるお役目があるから」
「人様を助けるお役目があるから」
などと変に重々しく考えて、重い使命感を担っているかのように
深刻に考えていると、辛い、きつい身体症状として
それを体験することにもなるだろう。
深刻に考えていると、辛い、きつい身体症状として
それを体験することにもなるだろう。
そんな役目など気にすらしていなければ、
わざわざ身体症状すら生じることもなく、
わざわざ身体症状すら生じることもなく、
他の存在をポジティブな方向へ向けることもできる。
知らず知らずのうちにできている人物もいるのだから。
自分に重々しい役割があると捉える思考が、
重々しい肉体的苦しみもまた生じさせていることに
重々しい肉体的苦しみもまた生じさせていることに
そろそろ気づく必要がある人々もいる。
------と、ここで「コンビニのトイレ」の例えが降ってきました。
コンビニでトイレを借りるとき、借りるほうは「ちょっと借してくださいね」と
ぺこりと頭を下げる程度だろう。それと同じようなことなのだ。
トイレを貸すほうも「いいですよ、どうぞ」と言って、さして気にしない。
けれども、トイレを貸してくれるということは、やはり親切なことだろう。
トイレは「排泄物(毒素)を処理する」という生理現象で、
当人にはコントロールできないものなのだから、
当人にはコントロールできないものなのだから、
コントロールできないのにトイレを貸してくれないというのは、
場合によってはたいへんな不親切になる。
場合によってはたいへんな不親切になる。
コンビニのトイレを貸してるほうは、気軽に「いいですよ」と言っただけで、
たいそうな親切をしたとも思っていないのが普通である。
しかし思っていないながらも、人が気持ちよくトイレを使えるために
トイレを掃除したりまでする。
トイレを掃除したりまでする。
生理現象を処理できたほうは、やはり親切を与えてもらったということになる。
表面的にはなんてことないことだけれど、やはりとても親切なことなのだ。
けれどまた、コンビニの店員が「トイレを貸してください」と言われて、
重々しい顔で「私にはトイレを貸すお役目があるので苦痛だが仕方ない、
どうぞ」と言っていたのでは、いちいち重たすぎて面倒くさいし、
恩着せがまし過ぎる。
どうぞ」と言っていたのでは、いちいち重たすぎて面倒くさいし、
恩着せがまし過ぎる。
だから、軽い気持ちでいれば、貸す側も身体症状も軽い上に、
借りる側も心地よく感謝できる。
借りる側も心地よく感謝できる。
にこやかにトイレを貸してくれたコンビニでは、
ガムでも買おうかという気持ちにもなるだろう。
ガムでも買おうかという気持ちにもなるだろう。
苦々しく貸されると、貸してもらったほうも気分が良いとは言えず、
感謝が湧くどころか腹を立てることすらある。
親切は善い行為ではあるけれど、重苦しく恩着せがましい場合は、
エネルギーの循環も重い状態になり、非効率である。
*その後のメールでもトイレについての補足がありました。
トイレの例も
「コンビニのトイレを貸してあげる程度のことを、なにを偉そうに考えとるんじゃ」
みたいな感じでした。
「いいですよ〜、使ってくださいね〜」とニコニコしてたら、
トイレを使った人も「お礼もかねてここでカラアゲでも買っていったげよ」
という気分が自然に湧く。
という気分が自然に湧く。
つまり、ギブアンドテイクで豊かさが循環しやすいだろうに、と。
これも従来的な「除霊します」「未浄化の霊を光にお返しします」
みたいな考え方は、もう古いものになって不要になっていく、
そういうのは偉そうに振る舞うキッカケにもなるので、もうやめていきましょか、
重いエネルギー循環の考え方ですから、という感じでした。
以上です。